意識=石+木

ヒトには、意識というものが存在する。

では、意識とは一体なんだろうか。

今年の3月に沖縄の久高島に行き、6月には遍路を通して四国を旅した。

そこで感じたことが、いろいろと繋がり出してきたのである。

その一つが、「意識」という存在。

そして、この「イシキ」は「石」と「木」によって成り立っているのではないかと…

イシ

この地球には、石を含んだ大地がある。

大地が無ければ、今のような生態系は無しえない。

生きる為には、どんな生物であれ、自分以外の何かからエネルギーを定期的に補充しなければ、その生命活動を維持することはできない。

ヒトは、その最たる存在だろう。

ヒトが生きてゆくために必要な栄養素は様々あるが、代表的なものは、ミネラルである。

ミネラルと聞いてほとんどの人が思い付くのは、「水」だろう。

だが、ミネラルとは、鉄やマグネシウムなど、鉱物を指す。

何故、ヒトには鉱物が必要なのだろうか。

それは、石のエネルギーがヒトには重要であるということの証である。

石は、太古からこの地球に存在し続けている。

それは途轍もないエネルギー。

日本には、縄文からあるとされる磐座が、幾つかの場所で残されている。

巨大な岩を目前にすると、何故かそこに触れたくなるのだ。

それはまさに、ヒトが石と波動共鳴を起こしているということになる。

当たり前だが、石や岩は動かない。

動かないからこそ、そこに滞留するエネルギーがあり、それが様々な鉱物へと姿を変えているのかもしれない。

そしてそのエネルギーに触れているのが、水と植物である。

ミネラルウォーターは、ほとんどが”~山の水”という風に言われる。

これは、山と呼ばれるものは岩か石で出来ており、そこを流れる水が、その石に含まれるエネルギーを移しとっているからである。

ペットボトルの水と、山の湧き水、どちらが美味しく感じるだろうか。

間違いなく山の湧き水だろう。

そこには新鮮な石のエネルギーが含まれ、それを飲むことでダイレクトにその波動が響き渡るということが言える。

石には間違いなく、人知を超えた未だ解明されていない、強烈なエネルギーが秘められている。

それは、体感した自分にしか分からないことなのかも…

木は果実を実らせ、草は野菜や根が生命を育む。

自然の風景とは、大きく分けると、大地(石)、森林(草木)、動物(生き物)、海(水)の4つになる。

その中でも、「草木」という存在は、ヒトにとってとても重要な存在である。

木は家や家具、薪や脂、草や野菜からは食事を通して得られるエネルギーが豊富に含まれる。

そして自然を観察すると、当たり前だが、必ず木は石の上に存在している。

木の上に石が乗っている状態のものは、見たことがない。

(世界中を探せばどこかにあるかもしれないが…)

本当に当たり前のことだが、真理は案外近くにあるということ。

木は成長するが、石は成長しない。

どんな断崖でも、道路のアスファルトのほんの小さな隙間でも、そこに植物は生えている。

植物は、石のエネルギーにより、その成長を得ている。

ヒトは、本来、植物のエネルギーによって形成されたと、「ヴォイニッチ手稿」に記されている。

7次元(もしくは9次元)で創られた、物質化されていない植物たちのエッセンスを抽出し、感情の起伏が少ないヒューマノイドに掛け合わせ、人類の原形を創造したとされる。

様々な植物が、ヒトの各細胞や臓器、微生物から昆虫、台風や想像力に至るまで、この世界のあらゆるものが、ここの植物たちによって創られている。

ヒトは猿から進化した存在ではなく、高次元の存在達が植物のエネルギーでヒトを生み出したとする方が、なぜかしっくりくるのは自分だけだろうか。

植物によって形成された生命体が、植物のエネルギーを必要とするのは理に適う。

この植物のエネルギーがヒトのエネルギーに変換されたもの、それを「気」と呼ぶのではないだろうか。

気は、ヒトのカラダを流れ、目には見えないが、確実に存在する。

天気・景気・元気・気分・気の毒・気持ち・雰囲気・気性・気のせい・気色・心意気・気配・合気…

この世界は、気で溢れているのが良くわかる。

気は、木と同様、流動的に動き、意思は、石と同様、固く不動である。

石と木は、静と動の対極にあるものだが、それらは上手く調和している。

そして、それらを繋ぐモノは…

ミズ

ヒトのカラダは水分が約70%などと言われたりするが、実際にそう感じているヒトはどのくらいいるだろうか。

水分がそれ程含まれているなら、実際はもっとタプタプしていてもおかしくはない気がする。

ヒトには「石」と「木」が不可欠であり、それを繋ぐ存在が「水」。

イシとキがミズによって繋がる。

ヒトは、元はただのヒューマノイドであり、そこに高次元で創られた植物のエネルギーにより意識が生み出された。

水は海であり、「生み」でもある。

ヒトは自分の事を、なぜか「自ら」と呼ぶのか。

「みずから」→「水から」

ヒトの中には「意思」と「気」があり、微生物などの「生物」を「水から」”ウミ”出している。

それは、まさに、地球そのもの。

結果、ヒトは、地球の縮図ということになる。

この、石と木から水を経て、生命の根源へとたどり着く。

そして、これに気づくきっかけになったのが…

浜の名は

沖縄県南城市の東にある久高島。

今から約16年前、30歳の時に沖縄で一人旅をした。

その時に、「神の島」と呼ばれる久高島を訪れてみたくなった。

何気なく島を歩き、ある浜に辿り着く。

その場所が何故か気に入り、時間の許す限りその場に居たように記憶している。

そして今年の3月、再び沖縄を訪れる機会があり、久高島のあの浜にももう一度行ってみることにした。

久高島には、浜(ビーチ)と呼ばれる場所がいくつかあるが、それらは全て島の南東(太平洋)側にある。

自分が30歳の時に来たときは、そこが何という名前の浜だったかは覚えていなかったが、景色は鮮明に覚えていた。

その記憶を頼りに、その浜を探した。

そして辿り着く、その場所に。

そこは、何もなく、ただ、岩と砂と、海だけだ。

だが、妙にその場に引き付けられる。

16年前と変わらず、やはりそこは、何か特別だった。

その答えは、今になってやっとわかる。

古代に存在したといわれる、レムリア大陸。

それが久高島の東にあったのではないかという情報を、ちょうど沖縄出発前に得ていた。

レムリアについては、レムリアの悲哀に詳しく書いているので、興味がある方は読んでみて欲しい。

この浜に引き寄せられるのは、やはりレムリアと関係があるということが確信に変わる。

そして不思議なのは、その浜の名前だ。

各浜は、ウパーマやシマーシ、タチやピザなど、どことなく沖縄っぽさがある。

自分が惹かれた浜の名は、「イシキ」だった。

しかもこの浜は、ニライカナイという神界から五穀の種が入った壺が流れ着いたとされる場所でもあった。

ここには幾つもの浜があるが、自分はここ、イシキ浜に導かれた。

そして7月に訪れた高知の室戸岬。

そこには空海が修行をし、金星が口の中から入ったことで、悟りを得、自らを空海と名付けた「御厨人窟」がある。

これについても、逆打ち四国遍路~其の三~高波動編に詳しく記している。

この金星というのは、高次元存在であり、レムリアとも関係があるように感じられる。

イシキ浜から南東に向かう線と室戸岬から南へ向かう線。

その二点が交わる所には、一体何があるのだろうか。

石と木が意思と気になり、イシキ浜で新たな意識が生まれた。

この世界で、自分は一体何をしなければならないのか。

この時代で、自分は一体何を思いださなければならないのか。

少しずつだが、魂の故郷に近づいてきている。

そんな、ノスタルジーに揺らぐ夜…

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

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