『本物』は“モノ”ではない

この世界は、一体何で出来ているのだろうか。

僕たち人類は何を生みだし、何に囲まれ生きているのだろう。

ヒトは生活を豊かにするために、様々な道具や住処、衣服などを作り出してきた。

そして現代に生きる僕たちにとって、この世界、もしくは社会は、物質が無ければ生きてはいけない状態となった。

だが、現代に溢れかえる「モノ」といわれる存在は、だんだんと『本物』から遠ざかってはいないだろうか…

 

偽物

今の世界に存在するモノは、偽物と本物が巧みに混ざり合っている。

一見しただけではその違いを見分けるのが、本当に難しい。

では何故、偽物なるモノが生まれてきたのだろうか。

キーボードで「にせもの」と打って変換すると「偽物」が出てくる。

この「偽」は、分解すると「人の為」となる。

僕たちは、決して一人では生きてゆけない。

だからこそ、ある程度の年齢や基礎的な教育を受ければ社会の一員になり、世の為人の為にその生涯を費やす。

こういった価値観は、ほとんどの日本人なら持ち合わせているだろう。

だがこの漢字を見れば「人の為」に生きることは、ニセモノだとの解釈になる。

人は、人の為になんて生きていない。

人は、自分の為に生きている。

そう捉えるべきだろうか。

人の為というのは社会的建前であって、皆の本音は自分の為ということだろうか。

社会というのは、幾千もの個人が創り上げている流動体。

そこに自分という一個人がどう関わって行くのか。

社会という個人の集合体に、自らの個を融解させてゆく。

その結果、個という存在は限りなく薄れ、その社会という巨大な集合体に飲み込まれてゆく。

一つの偏った価値観に溶けてゆくことが、人類による社会の真の姿なのだろうか。

そんな未来を生み出さないよう、出来ることは何だろうか。

人の為に生きることは、人として素晴らしいと評価してくれるかもしれない。

しかし、それは本当に正しい道なのだろうか。

社会という認識はそこに在るが、決して実態を掴むことは出来ない不気味な集合体。

それを生かし続けるには、生贄が必要なのである。

人の為と導くその先には、無情なる終焉が口を開けて待っている。

だからこそ、人は、自分の幸福の為、自分の欲する直感に従い、生きるのである。

獰猛な社会という生き物に自らを捧げるのではなく、それに手綱を付け、乗りこなす。

偽りの世界は、巧妙にその偽りを偽る。

どれが本物で、何が真実かを判断する能力を徐々に奪い、翻弄する。

だが、誰にだって弱点や隙は存在する。

そこを見つけ出し、背後に回って自らの意思を注入することで、それがやっとカタチあるモノへと変容してゆくのである。

姿を消しては表すこのじゃじゃ馬を、僕はいつになったら乗りこなせるのだろうか…

 

似せ物

偽物とはニセモノである。

このニセモノをジッと見ると、ある文字が見えてきた。

それが「似せ物」。

何かに似るということは、基準となる物が必ず存在することになる。

人類は、壮大な地球の営みから何かを発見し、それをカタチにしてきた。

そのあるモノは、ある一人の人物、或いはそこに携わる少数の人たちによって生み出された固有の存在といえる。

それを「本物」と呼ぶことにする。

だが、どこか違和感を覚える。

ある人が、ある直感を元に、数年かけて試行錯誤し、あるモノを生み出した。

それを見た人が、それとよく似たモノを数日で作り出した。

前者のモノが「本物」で、後者のモノが「似せ物」になる。

前者は0→1を生み出す才能があり、後者は1→5にする才能がある。

これはどちらが優れているということではなく、それぞれの役割を互いに認識し、生活を豊かにすればいいのである。

だが、やはり、後者だけではこの世界は単一的なモノしか存在しなくなる。

前者の閃きがあり、それをこの世にカタチとして生み出さなければ、この世界に新たな喜びや楽しみが少なくなるだろう。

作り過ぎても、少な過ぎても、それは繋がってはいかない。

そう考えて現代を見つめてみる。

本物と似せ物のバランスはどうだろうか。

今を生きる人で、インターネットを使った買い物をしたことがない人の方がきっと少ないだろう。

ネットでは、そのモノの説明文や画像、動画やレビューを参考にそのモノを購入するかを検討する。

実際に間近で見て触ってという、人類がそれを手にするために判断してきた基準が幾つか排除されている。

その制約の中でそれが本当に自分が求めていたモノなのかを決定しなければならない。

これは、「売り手」と「買い手」、どちらに有利だろうか。

資本の力を使い、大量にモノを生産し、労働者からは低賃金で搾取、検索や広告であたかもそれしかこの世に存在していないかの如く、情報を操作する。

こんな条件の下で、人は本当に欲しいモノや、本物に出会えるのだろうか。

今を生きる僕たちの周りにある「モノ」。

これを「モノ」と定義するなら、「似せ物」の方が何倍も価値がある。

何故ならこの「似せ物」は「本物」を手本にしたからである。

今の「モノ」はこの「似せ物」をかたどった「マガイモノ」である。

これに相応しい漢字は、きっと「魔害物」になるだろう…

 

本者

本物は一体どこにあるのだろうか。

現代にあるモノのほとんどは、いわゆる加工品である。

人為的、機械的に手を加え、世界に流通している。

これを否定はしない。

だが、それが一体何で出来ているのか、どこの国で作られているのか、いくらで売られているのかなど、ほとんどの人が気にも留めないのである。

だからこそ、世界はそれを巧みに利用し、こういった流れを作り出した。

人々は、それが何かよくわからないまま、政府やメディア、グローバル企業などの仕掛けるままに踊らされているように感じる。

そこから抜け出すのは、先ずは「本物」に触れることではないだろうか。

日本にはこの国独自の自然環境がある。

その自然を崇拝し、祈りを捧げ、生命を育んできた。

土を固めて焼いた土器を作ったり、植物の茎や葉を編んで籠や履物を作った。

誰かが何かを感じ、それが感動を生み、初めてモノとなる。

物は、人が創り出す。

人は「者」である。

物は、者からしか生まれない。

よって「本当の物」は「本当の者」

本当の者とは、真に自然と繋がった者。

自然の中に魂をくゆらせ、啓示を感じ取る。

無から有への掛け渡し。

だが、今人類発展のあるべき原点の火が、小さくなってゆく。

このままの流れで世界が進めば、「魔害物」だけが生き残り、それが唯一の「本物」として君臨してしまうだろう。

この世界には、決して消してはならないその土地固有の文化や伝統、言語や逸話がある。

それを紡ぐため、僕も今、在る伝統技法を習得中。

本物を生み出す本者になるため、喜んで曲者であることも、厭わず…

 

 

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