ヒトは、何故、歩くのか。
そんな問いが、ふと浮かぶ。
移動を目的とするならば、動物のように4足歩行にすればよい。
立つことだけにするなら2足より、3足(点)の方が安定するだろう。
だが、ヒトの足は、誕生以来ずっと、2本のままだ。
四国を遍路していて、歩きながら、この”歩く”という行為に意識を向けてみた。
すると、2つの解釈が浮かんできたのである…
止+少
「歩」という漢字は、「止」と「少」で出来ている。
このことから「歩く」ということは、「止まることを少なくする」という解釈ができる。
止まるには、進んでいなければならない。
そして、ヒトは時代と共に、如何に早く進めるかという流れに乗っている。
動物、人力、機械、空気、資源など、様々なモノを組み合わせ、移動を進化させてきた。
現代は、徐々に歩くことから遠ざかっている。
過酷な肉体労働から、デスクワークへの移行。
このことからヒトは、如何に「歩きたくない」生命体である事が分かる。
もし、ヒトに足が必要なければ、進化の過程で退化していてもおかしくはない。
だが、ずっと、足は付いている。
そう考えると、足は、早く移動するために付いている器官ではないということになる。
ヒトのカラダには、限界がある。
他人より早く走れたり、跳べたりすることがそれ程重要なことだろうか。
肉体は、この物質世界の最たるものであり、それが無ければ生きてはいけない。
他人より強く、美しく、優位であれるか。
それが、生きることの基準になってしまっている。
この”戦い”に敗れた、もしくは棄権したものは、生きる価値がないと判断する。
それが自然淘汰というものなのかもしれない。
そして、ヒトは何故争うのか、ということ。
もし誰よりもパワーがあるとしたら、それを自分のエゴの為に使う人間と、社会の為に使う人間とでは、どちらが人生を幸福に生きられるだろうか。
現代は、支配と隷属のピラミッド構造の時代から、愛と調和のサークル構造の時代へとシフトする、ちょうど中間地点である。
現代を含む過去においては、他を凌駕する圧倒的な権力、地位、名誉、血筋、資産などがあれば、ヒトを支配し、思いのままに動かすことが出来た。
しかし、これからの時代は、個々の才能を認め合い、それを生かし合いながら皆が豊かな日々を送ることが出来るようになるだろう。
その為には、今までと同じ流れの中に居るのではなく、逆向きのエネルギーが必要になってくる。
止まることは、進むことの中にある。
過去から続くこの流れを完全に止めてしまうと、一体どうなるだろうか。
間違いなく、パニックになるだろう。
この、情報が全てと言われる時代で、何がリアルでフェイクかを見分けるのがとても難しい。
今世界で起こっていること(ニュース)は、どちらの流れから見た景色なのかを客観的に見る視点を持つことで、その真意を見極めることが可能になるだろう。
本当の悪事は、絶対に表には現れない。
権力やカネの力を使って、揉み消しや隠蔽を行い、それでもバレそうなら下っ端に責任を取らせ、その地位に居座り続けるというのが、支配者の常套手段なのである。
この世界が居心地がいいと感じているヒトは、きっと誰かを支配している側だろう。
こんな世界はうんざりだと感じているヒトは、きっと誰かに支配されている、もしくは従っていると感じている側だろう。
目に見えて、早さや強さが求められる今において、歩くということは、一体何を意味するだろうか。
進むことは止まることであり、それを少なくする。
ヒト、時代、情報は、途轍もないスピードで過ぎ去ってゆく。
それをふまえると「歩」から導き出せることは、「緩める」という感覚ではないだろうか。
早く進むというのも大変だが、遅く進むというのもまた難しい。
効率や成果ばかりが重視される世界では、どうしても精神や情緒というものが疎かにされてしまう。
ゆっくり歩く、そして情緒も感じれるものが、日本にはあった。
それは、能楽。
日本人がどこか忘れかけていた感覚が、この能を通して呼び覚まされるかもしれない。
何かを変える、もしくは変えずにいるにも、どちらしてもそれなりの覚悟がいる。
何もない一日を憂うのか、それとも喜ぶのか。
自分は一体、どんな世界に生きたいのか。
それは、”ゆるり”とした時間があるから、訪れたのだ…
在る苦
歩く=あるく=在る苦
ここから、”歩くことは、苦しみである”という解釈ができる。
ブッダは、生きること・老いること・病むこと・死ぬことの、四苦に、愛別離苦などの4つの苦しみを合わせ、四苦八苦を説いた。
では、苦しみとは一体何なのだろうか。
「苦」は「草」と「古」に分割出来る。
ヒトは、草(植物)のエネルギーによってその生命を維持している。
植物は、ヒトにとってなくてはならない存在である。
雨になった水が岩山を通り、ミネラルを含んで大地に流れる。
それを吸収し、多種多様な野菜や果実を実らせる。
動物たちもその植物を食み、ヒトはそれらを食すことで生きることが出来ている。
ではヒトは何故、自らに植物を取り込む必要があるのだろうか。
それは、ヒトが、植物のエネルギーによって形成されているからである。
これは、古代アトランティスの時代に降り立ったトートという存在が、16世紀にあるイタリア人を通して伝えた「ヴォイニッチ手稿」に記されている。
このヴォイニッチ手稿については、また別の機会に深掘りしてみたいと思う。
ここからヒトは、植物と切っても切れない関係ということが導き出された。
次は「古」。
一般的には、固い、もしくは古い兜の象形文字から「古」になったとされているが、これに草が付いたところで「苦しい」というニュアンスにはならない気がした。
そこで「古」も「十」と「口」に分けてみると、それが徐々に「苦しみ」に繋がり出す。
この「十」が剣に見え始め、それを「口」の中に入れてゆく。
昔テレビで剣を飲みこむというマジックを見て、息が苦しくなったことは誰しもが経験したことだろう。
実際に剣を口の中に入れられれば、苦しみながら死を迎える。
死ねば土に埋められ、その上には草木は生える。
そんなことを生きながらに想像すれば、なんだか気分が悪くなり、苦しくなるはずだ。
だが、これは肉体においてのみ訪れる感覚である。
未だこの世界は支配と隷属の流れにあり、それが最も必要とするエネルギーは「恐れ」なのだ。
この世界、いや、地球は、太古からある邪悪な存在達に支配されており、彼等はヒトが出す「恐れ」が大好物だとされている。
如何に人々を恐怖に陥れるかで、その味わいが変わるのだろう。
自分たちが生きることに不安になったり、お金や人間関係に悩めば悩むほど、彼等に栄養を与えることになってしまう。
それがまた彼らを生かし、結果自分たちが苦しむという、生き地獄のループを巡り続けることになる。
ではどうすればそこから抜け出せるのか。
先ずは、それを知ることであり、それを学びに来たと受け入れることから始まるのではないだろうか。
これからは、ミロクの世が始まるという。
ミロクとは、ミ(3)=身、ロク(6)=ム=無
カラダを無くすことが苦しみではない。
ヒトは、カラダだけの存在ではなく、魂や神仏、高次元存在や宇宙意識と繋がっている。
この三次元の物質世界で生きて、その喜びや不自由さを体験するために、器としてカラダ必要なだけである。
だから、魂や意識の視点から見れば、このカラダというものは、何て扱いにくいモノなんだろうかと思うだろう。
しかし、これからヒトは新しい地球と共に5次元へと移行する。
その時、このカラダはどのように変化するのだろうか。
苦しみというものを味わった人類は、きっと5次元ではその感覚を持ち込まないだろう。
「歩く」ということも、全て、アセンションへと繋がっていた。
来るその時の為、ゆっくりと、世界の変容を眺めることにしよう。
”よんな~ よんな~”
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今日も貴方は素敵です☆