時間とお金と自由

ヒトは、何かに夢中になっているときがある。

気付けばもうこんな時間になっている…

そんなことをほとんどの人が経験しているだろう。

その時の状態とは、一体自分の感覚は、どうなっているのか。

そんなことをふと思う…

 

人材派遣の「時間」と「報酬」

「時間」という概念はいつから存在したのだろうか。

朝は大体9時から仕事が始まり、12時になれば昼休み、5時か6時には仕事が終わる。

この、流れは、一体どこから生み出されたのか。

僕は昔から、何となく日々、同じことを繰り返すのが苦手だった。

いわゆる、ルーティーンというやつである。

勿論それを出来なくはない。

だが、叶うならそれ以外の生き方をしたい。

そう思い、20代の頃から、イベント関係(人材派遣)の仕事をしてきた。

勿論この仕事には、メリット・デメリットがある。

だが、毎日決まった仕事をしたいと思わない僕には、ちょうどハマっていた。

先ずこの世界は、基本的には日当制である。

僕が当時いた派遣会社は、4時間と9時間、それ以降は残業というシステム。

4時間の仕事と聞いていて、現場が1時間で終わっても、4時間の日当がもらえる。

休憩もなく、4時間動きっぱなしでももらえる給料は同じになる。

なので、僕らの世界では、「アタリ」や「ハズレ」という用語が自然と出来上がっていた。

逆に言えば、9時間の現場で頑張って早く終わらせようとし、4時間で終わってしまったとする。

ほとんどのお客さんは、9時間で伝票を書いてくれるが、中には終わった時間で書いて欲しいという人もいる。

僕たちは、そのクライアントが会社にどんな時間割や価格を提示しているかはわからない。

だから、派遣業界の人間は、『頑張って仕事を早く終わらせれば、貰える日当が減る』という風に考えるのです。

言い換えれば、”出来る奴より、出来ない奴の方が得をする”ということ。

僕はこのことを考えたとき、何か違和感を覚えた。

派遣の仕事というのは、質ではなく量の世界。

何人出せるか=売上である。

でも、僕たちは、モノではなく、ヒト。

そこには年齢、経験、生い立ち、国籍、様々な人たちがいる。

僕は、今までいろんな場所で様々な仕事をしてきた。

またこの現場に行きたいと思うこともあれば、2度とこの現場には行きたくないと思うこともあった。

僕がいた人材派遣会社には、本当に様々な人たちがいた。

これは僕の勝手な解釈だが、大抵の人は、時間と金額と現場の内容(労働)が合うかを計算していたはずである。

そして、労働<報酬 になるような選択を自然としていたと思う。

これは、この世界にいれば当然の事だろう。

少なくとも僕もそう思う。

ヒトは楽をして儲けたいと潜在的に思う生き物。

だが、僕は、少しみんなと考え方が違った…

 

自由な世界

僕が現場を選ぶ基準は、「感謝」されるかどうか。

先ほども書いたように、僕たちの世界は「量(数)」。

例えばイベント会場でテントを立てるのに、クライアントが5人発注したとする。

その時にテントを組んだことのある人が1人で、後の4人は未経験という場合もあるし、5人全員が組めるという場合もある。

これは、クライアント側にも「アタリ」と「ハズレ」が起こってくる。

ヒトは、アタリが出ると嬉しくなり、ハズレを引くと溜息をつきたくなる。

だから、今思えば、僕は「アタリ」になりたかったんだなと…

この、”誰でもいい世界”で、僕は、必要とされる存在になりたかった。

だから、「しゅん君が来てくれて助かったわ、ありがとう。」

どんなに現場がしんどくても、その言葉で救われた。

どうすれば、どんな動きをすれば、お客さんは助かるだろうか。

どうすれば、また僕たちを呼ぼうと思ってくれるだろうか。

どうすれば、期待以上の仕事が出来るだろうか。

ずっと、ずっと、それだけを考えて生きてきた。

夢中で、がむしゃらに、生きてきた。

そしてある時、気づく。

僕は、お金の為に仕事をしていなかった、と。

だが、この世界は、何故かお金と時間が結び付いている。

いつからこの全く違う概念を持つ「時間」と「お金」を一体化させてしまったのか。

この2つは、本来切り離して考えるべきではないだろうか。

この”Time is Money”という概念に縛られている限り、僕たちに真の自由は訪れないかもしれない。

人材派遣で仕事をしていた時は、少なからず「自由」を感じていた。

だが、いろんな世界が見えるようになった今では、その自由も限られた小さな世界だったと気付く。

そして、今だから思うこともある。

真の自由は、時も忘れ、何かに夢中になっている状態ではないだろうかと。

僕たちを縛るものは、人間関係でもなく、お金でもなく、思考でもなく、「時間」である。

この「時間」という巨大な存在から少しでも解放されるべく、ヒトは何かに没頭するのかもしれない。

少なくとも、この文章を書くために自分と向き合っている状態は、時からエスケープ出来ていた。

ヒトは、いつか「時」に動かされるのではなく、「時」を動かせるようになるのかもしれない。

本当の自由は、時間のない世界

それは自分の魂と向き合うことで、きっと創り出せるだろう…

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

今日も貴方は素敵です☆