この世界では、人が何かを生みだし、カタチにすることを「表現」と呼ぶ。
この「表現」を皆は「芸術」もしくは「アート」として認知しているだろう。
ではこの芸術という領域は、ごく限られた才能を持つ人たちにだけ与えられたものなのだろうか。
見る人が美や感動を覚えるものもあれば、全く理解できない領域のものもある。
古代の精神
僕は現在、『作品』を作っている。
それは、文字を紡ぐ小説と革を使った造形物。
人は何かを表現したいと思った時に、それを表す手段がいる。
何かを用いて自分以外の誰かに伝えるには、それを認知してもらう必要がある。
ヒトが生み出したの表現方法は、太古から歌、踊り、絵、陶器、彫刻…
では何故、人は表現する必要があるのだろうか。
古来からヒトは、衣食住さえ確保できれば繁栄してゆける。
では縄文時代の人々は何故、土器に文様を付けたりしたのか。
普通に考えれば全く必要のないものだろう。
約1万5000年前に生きていた人たちは、何故そんなことをしたのだろうか。
日本の歴史は、「古事記」や「日本書紀」が最も古いとされているが、それ以前の日本の文化を綴った書物がある。
カタカムナやホツマツタエ、竹内文書や九鬼文書などである。
僕は、これらに関する本を読んだ時、それが何なのかがうっすらと見えた気がした。
彼等は、見えない世界、いわゆる「精神世界」の存在を理解していたのだと。
「精神」とは「魂」であり、「神」でもある。
風や火や水、地など、宇宙の全てに神が宿り、それが自分たちの中にもそれが存在し、一体化していると。
肉体と精神のバランスこそが、ヒト本来の姿。
肉体の維持だけに必要なのは、衣食住。
精神の維持に必要なのは、宇宙との繋がり。
今、僕たちが生きるこの時代は、あまりにもモノを大量に生産し、肉体を維持することだけに偏り過ぎてはいないだろうか。
人は何故疲れたら、自然豊かな場所に身体が向くのか。
かつて争いのない時代を築いた縄文人たちは、僕たちが想像も出来ないほど豊かな暮らしをしていたかもしれない。
裏隠
この世で生きるためには何が大切だろうか。
ほとんどの人はこう答えるだろう。
お金。
これを誰よりも多く手にすることが、幸福だと思っている。
僕も、お金は欲しい。
だが、その魔力に憑りつかれてはいけない。
お金は、人々を豊かにする「ツール」に過ぎない。
大切なのは、取り乱さないこと。
指針は肉体と精神のバランス。
現代は、物質的欲望に塗れた実感的世界。
その中に取り込まれ続ければ、だんだんと染まってしまうだろう。
だからこそ、僕たちは、精神に重心を移してみる。
魂のサインに意識を向けてみる。
そうすることで、だんだんと本来の自分を取り戻してゆく。
話がだいぶ膨らんでしまったが、僕が思う「表現」というのは、「魂の声」だと解釈している。
この魂が、この世で何を感じ、何を学びえたか。
宿ったこの肉体と呼ばれる器で、どう成長できたか。
器の形はそうそう変えられない。
だが、中に入る魂は、変幻自在である。
ここまで表現とは何かといろいろ考えてきた。
”表に現れる”のだから”裏に隠れる”ものがある。
この”裏”こそが”魂”なのではないだろうか。
芸術とは、その魂の発表会。
だから芸術とは一部の才能のある人たちにしか備わらないものではない。
それぞれに宿った魂のシグナルに従い、流れを促してあげる。
どんなルートやツールを使えばそれが表に出て来やすいか。
自分に宿った魂の為に考えてあげる。
そうすることで自信が持て、自分を認め、自分を愛することが出来るかもしれない。
あぁ、もうこんな時間か…
では、そろそろ魂を散歩に連れ出すことにいたします…
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今日も貴方は素敵です☆