この世界には、争いがある。
生物には、他者から自分を守る、もしくは優れていると証明するため、好戦的な本能を秘めている。
ヒトも生命体である以上、この本能からは逃れられない。
ただ、どんな場面においてこのエネルギーを使うかが重要である。
自分がその他大勢の人を支配するために使うのか、獣や災害などから大切な人達を守るために使うのか。
それを「戦」と「武」から考えてみる…
単と止
「戦」は戦争や戦国、戦乱など、「たたかい」や「あらそい」といった意味になる。
「武」は武器や武士、武勇など、こちらも大体同じような意味になる。
この部分での違いは、「たたかい」という「戦」は大多数の争いで、「武」は個人の争いのようなニュアンス。
次に、互いにその漢字を分けてみる。
「戦」=「単」と「戈」
「武」=「止」と「戈」
どちらにも共通するのは「戈」である。
この戈は、相手の命を奪う道具の象徴であると考えられる。
では戦の「単」は簡単、単純、単語などから、複雑ではない一つ、もしくはそのまとまりを意味することから、武器を持った人、あるいはその集団を指すことが分かる。
一方「武」の「止」は字の如く、止まる、止める、抑止などから、戈を持つ人を止めるという解釈ができる。
この二つの漢字から、戦士と武士の大きな違いが見えてくる。
相手との戦いにおいて、如何に勝つかに重点を置いて肉体を磨くのが、戦士。
相手と如何に戦わずして、その場を収められるかに重点を置いて精神を磨くのが、武士。
エネルギーのポイントを、外的に使うか、内的に使うか。
両者は似ているようで、真逆である。
世界に人類が誕生し、様々な進化の後、集団化した国まで形成した。
その過程の中で、ヒトはたくさんの争いを繰り広げたはず。
そしてその中で、武人のようなスタイルを持った国や民族が、日本以外に存在しただろうか。
戦の漢字から分かるように、他人を殺傷出来る道具を持って戦闘に参加すれば、老若男女関わらず、「戦をする人」になってしまう。
これは大陸的、もしくは西洋的な戦いの概念である。
では何故、同じヒトである日本人だけが、「武士」という特殊な進化を遂げたのだろうか…
縄文人の戈
ヒトには生まれ持った闘争本能がある。
では、ヒトはどんな時に争うという感情や状態になるのだろうか。
日々、すべてのモノに満たされ、感謝し、憂いなど存在せず、今日という日を生き生きと過ごせる。
そんな毎日が続けば、争うという概念が生まれようもないのではないだろうか。
そしてそのような時代が日本にはあったのである。
それが今から約16000年前の「縄文時代」。
この時代の発掘された人骨からは、人々が争いで亡くなったという証拠が全く出てこないという。
それが縄文の晩期約3000年前までの約13000年にわたって、人々が争うことなく過ごしていたという証ではないだろうか。
では何故、縄文人はそんな時代を過ごせたのか。
縄文人といえば、やはり縄文土器。
彼等は何故、モノを入れるだけの器に、火焔土器のような装飾や文様を施したのか。
合理性を考えればかなり無駄な部分である事が分かる。
だが彼らはそんな土器をいくつも作っている。
一説には縄文人は高い精神性を持ち、自然と共存、共鳴していたとも言われる。
彼らが作る土器に入れた食べ物は腐りにくくなったり、火焔土器の火焔に見えるものは、実は水の流れを表現しているとの見解もある。
そんな縄文人がベースにある事で、争うという分野においてでも、出来るだけ相手と争いたくない、どうか穏便にこの場を乗り切りたいと思う心が、「武士」という生き方を生んだのではないだろうか。
こちらは争う気がなくても、他民族は争いによって自らの存在を紡いできた。
日本人は、縄文人の遺伝子を持つのであれば、本質的には争いを好まない。
だが、他人が自分たちの大切にしているものを奪おうとするならば、容赦なく立ち向かう。
世界は、日本人が、きっと怖いのだろう。
高い精神性を持ち、寛容で、人情味に溢れ、忠義に厚く、命を武器に変える。
ある意味、この虚実と腐敗に塗れた世界を創り直せるのは、こんな精神性を持つ日本人にしか出来ないのではないだろうか。
世界は、僕たち日本人が本気でキレたらどうなるのかを、過去の歴史で知っている。
知らないのは当の日本人だけ。
世界は、僕たちが何者なのかを、一人一人が見出すことを恐れている。
僕たちは意図的にその秘めたるエネルギーが発動しないように、巧みに教育やメディアによってロックをかけられている。
僕たちの持つ戈の強さは、太古から肉体ではなく、心であり、魂である。
だから僕たちは日々、魂という名の日本刀を磨き続ける。
出来ればそれを使わずに、世界がその心に気付き、真の平和が訪れればいいのだが…
では本日は、これにて御免
今日も”そなた”は素敵です☆