逆打ち四国遍路~其の二~帰還編

香川県の八十八番霊場大窪寺から徳島県の一番霊場霊山寺への逆打ち四国遍路の旅は、2024年6月18日~7月23日までの36日間であった。

旅の所々でいろいろな気付きを投稿出来ればなどと思ってはいたが、それはできなかった。

ヒトは、何か行動するときには計画を立てる。

そしてその計画に従い、自らを動かしてゆく。

現代で生きる人々には当たり前に聞こえるだろう。

一日の行動スケジュールを立て、肉体、頭脳、精神におけるバランスを取りながら目的地へと歩を進める。

初めは一日30キロを歩けば、40日で一周1200キロを巡れる計算をしていた。

だが、実際に遍路を始めてみると、これは厳しい、と感じた。

そこで、どうすればこの旅を続けられるか、という問いが生まれ、それを解決する方法を考える。

問題の大小はあるが、それを乗り越えなければリタイヤとなってしまう。

頼るのは、自分だけ。

そんな現実と向き合い、自然との一体感や衣食住の有難さにも改めて気づく。

遍路とは一体どのようなモノなのだろうか…

遍路とは、祈り(真言)と移動(徒歩、車等)、この二点であるといってもいいだろう。

この、単純な世界の中に自分の身を置くと、様々な変化が感じられたのだ…

 

カラダ

先ずは肉体における変化として、筋肉痛が起こる。

ザックの重さは計ってはいないが、そこそこの重さの荷物を担いで一日中歩き続けるなんてことは、日常においてほとんどない。

肩、腰、太もも、ふくらはぎ…

普段の仕事で身体を動かしてるとはいえ、全身が筋肉痛に襲われるという経験は初めてだった。

何度ドラッグストアで湿布を買ったことか…

ザックは肩ではなく、腰で担ぐという意味がカラダで分かるまでそれなりに時間がかかったが、荷物とカラダがフィットすれば体力の消耗は抑えられた。

そして日数が進むにつれ、荷物を徐々に減らしていくことも重要だと気付き始める。

モノを持つほど安心感は増すが、その反面、重量感も増してしまう。

日常においてモノを買うことは、当たり前である。

服を買い過ぎてクローゼットに入らないことや、本を買っても棚に置けない事態は起こる。

モノが増えすぎて部屋の居住スペースが減ることはあるが、モノを持ち過ぎてカラダが重くなることはない。

もしかして必要になるかも、という気持ちでそのモノを持ち続けていると、段々と体力を奪う要因にもつながってしまう。

逆打ち四国遍路~其の一~装備編で、この旅に必要になると思うアイテムを記したが、日にちが経つにつれ、要らない物は送り返したり、処分したりして、本当に必要最低限のアイテムだけにした。

初日が終わった時点で、何日かを野宿をするという計画を諦めた。

朝から夕方まで歩き続けた後で野宿を出来る場所を探して設営することよりも、宿代は掛かるがテント一式の重量を無くすことで体力を確保することの方が重要だと判断したからだ。

こうしようと計画していても、実際にその場に身を置くとそれが通用しないことがある。

ヒトはそのような時に出くわすと、二つの選択を迫られる。

続けるか、諦めるか。

このジャッジは誰にも相談できない。

唯一の判断基準になるのは、自分の直感だけである。

続ける、と決めたら、次はどのルートでそれを継続するかを考えなければならない。

ヒトは、このカラダという肉体のみを自分だと認識しがちだが、決してそうではない。

カラダは常にアタマやココロ、タマシイと繋がっている。

いくらアタマで効率よくプランを立てていても、それにカラダが付いて来ないこともある。

愛する人に早く会いたいとココロが叫んでも、ヒトのカラダは不眠不休で進むことが出来ない。

全てが均等なバランスではないにしても、この地球で生きるには必ずカラダを持ち、それを上手くコントロールしなければ、ギアがずれたり、ガス欠になったりし、全く進めなくなってしまう。

痛みの兆候として先ずは筋肉が、その次は靴擦れによる外傷。

今回は、いつも履いているスニーカーと、梅雨時期ということもあり、防水機能のあるスニーカーの二足を持っていった。

これだけ歩いているのだから靴擦れというのは起こっても仕方がない。

先ずは水膨れができ、それが動くたびにヒリヒリと刺激が伝わる。

歩くたびにその感覚が伝わるのだから、思うように歩くことは出来なくなる。

宿に着いたら針で水を抜き、絆創膏とガーゼで保護をし、朝には少しでも痛みが取れていることを願う日々が続いた。

そしてやはりこう考える。

「なぜ靴擦れがおこるのか…」

これだけ歩けば靴擦れが起こってもしょうがない、そう結論付けていたが、ある時ふと気づいた。

履き慣れた靴と新しい靴。

靴擦れのほとんどは、履き慣れていない新しい靴で起こる。

しかし、靴擦れになる前日は、履き慣れた靴を履いていることが多かった。

二足ともハイカットだが、普段の靴は脱ぎ履きしやすくするためにゴムの紐にしていた。

新しい靴はサイドにファスナーがあるため、紐はそのままに。

このゴム紐が靴擦れを生みだしていることに気づいたのは、旅の半分を過ぎてからだった。

歩きやすく脱ぎ履きしやすくするためにゴム紐に変えたことで、より皮膚と靴に摩擦が生じていることに気づかずに歩いてしまっていた。

便利で快適だと思っていたことが、環境が変わると逆に苦痛を生む原因になっているということに気づけた良い一例だった。

カラダが痛むということは、どこかに必ずその原因がある。

それを意識せずにただそれを続けるのは、自分のカラダがあまりにも可哀そうだろう。

カラダは素直なのだ。

歩き遍路は、歩かなければならない。

だが、時と共に内と外のカラダが警告を発する。

そこでそれをサポートするのが、アタマである…

 

アタマ

ヒトは、アタマで考えたことをカラダで実行する。

遍路をするにおいて、何を準備し、どれくらいの距離を歩くには何時間かかるか、そういった計画や計算をするのはアタマでしか出来ない。

現代に生きるヒトでアタマを使わないヒトはいないだろう。

だが、アタマを使い過ぎると、行動に躊躇が生まれてくる。

アタマが先行すると、未来予測が経ちすぎて本当に堅実な道だけが残る。

旅というものは、あまりアタマで考えずにココロとカラダで進む方がその醍醐味を味わえるだろう。

ただ、自分にとって、今回の旅は、出来るだけアタマを使いたくはなかったが、やはり使わずにはいられなかった。

どうすれば一日の時間内に幾つの霊場を巡ることが出来るか、どこに宿を取れば明日をスムーズに進めるか、など、当たり前の事のように聞こえるが、それを無くす(しない)ということがどれほど難しいことかに気づく。

場所によって霊場の距離が様々なので、密集しているところは一日で5,6ヶ所いけるところもあれば、2,3日に1ヶ所ということもある。

一日中歩き続け、宿に入り、風呂と食事を済ませ、明日の行動計画を立てる。

ほぼ、これが毎日続いた。

遍路地図とグーグルマップを併用し、どのルートで行けばどのくらいの時間がかかるかを計算し、飲み物や食べ物を買える場所がその道中にあるかも調べておく。

そして最も重要なのは宿。

これは本当に時間がかかる。

先ずは一日の到着距離に宿があるか、それはいくらくらいか、ビジネスホテルか民宿か、片っ端からチェックし、いい宿が無ければそのコースは諦める。

反対に、いい感じの宿が見つかれば、そこに行くには何時に宿を出発し、どのくらいのペースで歩けば夕方にはチェックイン出来るか。

そうやって次の日に巡るイメージが出来るまで、毎日何時間もアタマを使っていた。

何時間もカラダで歩き続けるために、何時間もアタマで計画を立てる。

そしてある日、どれだけアタマを使っても、このカラダの状態では目標地点に到着出来ないという状態に直面する。

どうすれば時間内にそこに歩いて辿り着くことが出来るか。

ヒトは夢中になると、視点が狭まる。

ふと力を抜き、俯瞰して物事を見つめ直す。

そうすれば、自ずと霧が晴れるかの如く、この世界が見えてくる。

今まで隠れていた存在が、ふと姿を現す。

線路だ。

遍路は歩くもの。

そんな思いが知らず知らずのうちに自分の中を支配していた。

歩けないなら、その区間、電車に乗る。

ここまで歩いたのにここで電車に乗るのか、という葛藤もないことはなかったが、乗らなければどうしようもない。

そして思う。

電車とは、数百円ですごい距離を一瞬で移動するなんとスゴイ乗り物なのかと。

何日も歩きだけで移動していると、乗り物の便利さに改めて気づく。

ここから、「ザ・歩き遍路」という一層目の呪縛がほどけることになった。

全ての工程を歩きで行うことが遍路である。

この見えないルールが自分を苦しめていることに気づいてからは、自分なりの遍路を行うことが出来るようになっていった。

歩きたい場所は歩き、霊場のない場所や一日中雨が降る日は電車に乗ったり、泊まる宿が無いためバスでしか行けない霊場があったり、ホテルでレンタサイクルを借りて二日分を一日で巡ったりもした。

全て歩きで1,200kを巡るには、約45日くらいはかかるという。

今回の歩いた距離は約700kで、電車やバス、自転車やロープウェイなどの乗り物を使いながらの36日間。

アタマで計算していても、実際にその場に行ってみると、少しずつズレが生じてくる。

それを如何に修正し、カラダの負担を減らすことがアタマの役割である。

しかし、アタマの比重が増えすぎると、バグが発生することも。

一日中行動し、次の日の行動計画を練る。

仕事ならこれで報酬を得るが、旅なら支出。

ここでも真逆の現象が起こってる。

こんな大変な思いをしているからその見返りとしてお金を得るのが、仕事。

だが、遍路の場合は、お金を払って大変な思いをする。

では一体、何を得ているのか。

それは”経験”そのもの。

これはアタマでは理解できない領域になる。

ヒトは、カラダとアタマだけの生き物ではない。

その均衡を保つのが、ココロである…

 

ココロ

四国遍路には”お接待”というものがある。

これは、遍路をしている人に対して、飲み物や食事、宿などを無料で提供することをいう。

自分は遍路をすることが出来ないが、巡礼者にお接待をすることで間接的にその功徳を得るということから始まったとされる。

このお接待という行為は、少なからず奉仕のココロが無ければ出来ない行為である。

幾つかの宿では、遍路の人には洗濯が無料だったり、朝のおむすびを作ってくれたりもした。

歩いている途中で軽トラに乗ったおじさんから麦茶を頂いたり、足摺に向かう休憩所で出逢ったサーファーの爺さんから愛南ゴールド(和製グレープフルーツ)を頂いたりもした。

実際にお接待というものを体験した時に、その感謝と同時に若干の歯痒さも感じてしまう。

相手の心遣いにこちらはきちんと答えられているだろうかと。

ヒトは、ただ日常を生きていると、それが当たり前に思えてしまうのである。

ヒトに生かされ、生き物に生かされ、草木に生かされ、石や大地に生かされ、川や海に生かされ、地球に生かされ、宇宙に生かされている。

道を歩いていると、横を車が通り過ぎてゆく。

その時に、スピードを緩めてくれたり、気を使って避けてくれたことを感じることが出来る。

車という物体が猛スピードで自分の横を通り過ぎてゆくとき、それは、本当に怖さを感じる。

だが、車には、必ず運転手というヒトが乗っている。

運転手から見れば、狭い歩道を歩く多くの遍路は邪魔だと感じるかもしれないが、本当に気を使って運転してくれているドライバーはどのくらいいただろうか。

どこに向かうにしてもヒトにはそれぞれの目的がある。

遍路をする人たちは、88か所を巡るという共通認識がある事で、その大変さを理解している。

ほとんどが一人での遍路になるので、あまり他人と話す機会が訪れない。

自分は逆打ち(88→1)だったので、順打ち(1→88)の人たちとよくすれ違うことがある。

その度に互いに挨拶をし、ほんの数秒だが、ココロを通わせる。

旅の行程が辛ければ辛いほど、そのすれ違いがとても貴重な瞬間に変わる。

日常では、他人とすれ違っても挨拶をすることはない。

ヒトが居て当たり前の世界と、ヒトが居て有難い世界。

何もかもがありふれた世界は、ヒトを必ずしも幸福へと導くことではない。

旅をしていると、自動販売機が重要になる。

ヒトがほとんど通らないような場所にも自動販売機が置いてある。

この自動販売機は、機械自らで飲み物を製造しているわけではない。

必ず誰かがこの場所に来て、飲み物を補充していることに改めて気づかされる。

歩けること、飲めること、食べること、出せること、話せること、座れること、カラダを流せること、眠れること。

全て、誰かのココロ使いによってそれは存在する。

物事の本質は、そこに在る。

だが、物質至上主義の現代は、その全てがビジネスに結びつき、この世界は歪な構造にシフトしてしまった。

日本人に太古から備わる”受け入れる”というココロ。

これを、何千年という単位で弄ばれてきたという風に感じるのは自分だけだろうか。

今、遍路をする外国人が非常に多いという。

実際にすれ違った人の半分くらいは外国人だった。

宗派にも因るだろうが、人生と宗教は一体であるという風に考えているだろう。

そうなると、日本人が信仰する宗教とは一体どんなものなのだろうかという興味が自然と湧き上がるのかもしれない。

そこで色々調べていくと、空海という人物に行き着き、遍路という巡礼の道に辿り着く。

日本人の当たり前は、外国人の当たり前ではない。

日本人として、どんなココロを持ち続けていくのか。

消えかかった日本のココロを如何に灯し続けるのか。

それは、本当に、一人一人の愛と感謝から広がってゆくのではないだろうか…

 

 

追伸

無事、88か所を巡り終え、自分に関わる全ての人々へ感謝いたします。

そして、一番霊場まで迎えに来てくれたパートナーに、最大の愛と感謝を込めて…

 

合掌

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

今日も貴方は素敵です☆