”イエス”×「ノウ」

この世界は、西洋と東洋に分かれている。

日本は、東洋に属するが、徐々に西洋化してきていると言えるだろう。

それぞれの土地や国には様々な文化や伝統がある。

その場でしか存在しないモノがある事で、この世界は豊かな生態系を育んでいる。

この国は明治時代以降、急激に西洋化が進んだ。

建物、洋服、食べ物、言葉、乗り物、音楽、宗教、思想…

日本はそれらと交わりながらも、独自の国であり続けてきた。

だがその勢力は留まるどころか、より一層そのエネルギーで覆ってくる。

彼等を突き動かす根源のエネルギーは、やはり救世主・イエスという信仰であろう。

一方、日本人は太古から神は万物に宿るという自然信仰。

この自然というのは、森羅万象、全てに繋がり、そのエネルギーと共に生きるということ。

これは、日本人にしか出来ない生き方なのかもしれない。

今、最も僕たち日本人が取り戻さなければならない感覚、それが自然を感じる、神を感じる、宇宙を感じるということ。

そして、その感覚を呼びもどす舞台芸術がこの国にはあった。

それが、ノウである…

 

能力

僕たち日本人は、伝統芸能と言えば、歌舞伎というイメージが強い。

だが、そのベースとなっているのが能楽である。

能というのは、一見分かりにくく感じるが、物語のあらすじや、時代背景が分かっていると、何とも言えない夢幻の広がりを見せてくれる。

あえて英語で有ならば、”ジャパニーズファンタジー”

本来は、大衆が楽しむためのものから、観阿弥・世阿弥親子によって、より洗練された世界が出来上がる。

舞台上には、その演目におけるセットや小道具が最低限用意されるだけ。

話し方や仕草、動きにより、その時の景色や感情を表現する。

観客は、その微細な変化を感じ取り、それぞれの物語を紡いでゆく。

シテ方と呼ばれる演者は、ほとんどが能面を付けている。

分かりやすく言えば主役であり、それは、この世のものではないということ。

例えばそれは、神・妖怪・天女・龍・亡霊・妖精など、ヒトではない存在がメインである。

彼らは何故、そこに居るのか…

その謎も話が語られるにつれ、徐々に全貌が見えてくる。

ミステリー、アクション、ラブストーリー、ホラー…

同じ演目でも見る人によって、解釈が無限に存在する。

出来るだけ情報をそぎ落とし、見る側がその世界を創るスペースを空けてくれている。

演じるもの、見るもの、言霊と音の旋律がその場に混ざり合い、境界が消えていく。

それが一体となって、初めて自分の「能」になる。

これがやがて、本人の「能力」となってゆくのだろう…

 

霊性

日本人が潜在的に持つ、霊性。

これからの時代は、物質性から精神性へ移行してゆく。

合理から情緒へ、生産性から創造性へ。

この世はどんどん速度を増している。

情報、移動、買い物、支払い、コミュニケーション、テクノロジー…

ある一定の高速度に到達したものは、その姿が捉えられなくなる。

動いているのか、それとも止まっているのか、視覚では判断できない。

見えていて、触れて、聞こえて、香って、味わえるのが、この世界。

これ以外の感覚は本当に必要ないだろうか。

物質世界の日常によって、霊性世界は閉ざされてしまう。

肉体と魂の均衡を取り戻すため、何が出来るだろう。

日本には、霊性を高める能楽という素晴らしい教材がある。

人の悲しみ、愛ゆえの憎悪、行き場のない想い。

誰もが心の中にある、喜怒哀楽の揺らぎ。

世界の国の中で、日本ほど優れた精神性が備わっている場所があるだろうか。

イエスやブッダ、老子や空海などは、高次元からやってきた魂が、その時代の霊性を高めるために宿ったと考えられる。

彼らがもたらした衝撃は、今でも巨大な影響力を持つ。

だが彼らの存在が、真の意味で、その国の平和や幸福に繋がっただろうか。

各個人としては強烈なカリスマ性を発揮したが、それを受け入れる側の準備が整っていなかったり、そのエネルギーを悪用するような流れが出来たことで、真理に辿り着くのが困難になった。

時代は紡がれ、”支配と従属”から”調和と慈愛”へと移り変わる。

これを導くコードが、我々日本人の中に組み込まれている。

より多くの人たちの霊性への意識が、調和と慈愛への豊かな世界を創り上げるだろう。

イエスが真に伝えたかった「愛」に到達するため、日本の「能」により感性・神性・霊性を磨いてゆく。

「アイ」×「ノウ」=西洋と東洋の和合。

“I know” 

『我、知る』

地球が、アセンションすることを…

未来が、光り輝くことを…

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

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