服装という名のもとに

ヒトは、年齢を重ねる度、服装や身に着けるものの趣向が変わってゆく。

体型や環境の変化もあるだろうが、もっと何か本質的なことが隠されているのではないかと考える。

ヒトは、どんな基準で服を選び、身に着けるのだろうか。

僕は若い頃、色や柄の強いものをよく身に着けていた。

だが40代になった頃から、徐々に落ち着きのある色や抑えた柄を着るようになった。

それはなぜか、そんなことをふと思う…

 

意識の表面化

ヒトは、教育の過程では、国語・算数・理科・社会・体育などは、義務教育として教わる。

しかし、「服を着る」という授業はない。

元々人類において、服は体毛の代わりである。

環境や季節における体温の調整を、今は衣服で行っている。

しかしその機能だけなら、ここまで多様な衣服は存在していないだろう。

今、人々が着る衣服の本質は、「自己表現」ではないだろうか。

”自分は、こんな人物です”と言葉を発さなくても、視覚で表現する。

それが、今の衣服における役割だと感じる。

逆に言えば、衣服に気を使わない=自分に気を使わない、とも言えるのではないだろうか。

これは、安い服を着るとか、同じ服を着続けるという意味とも言い切れない。

自分を今、最も表現できる服装はどんなものだろうと感じ、それを表現しきれているか。

安くてボロを着ているからといって、自己表現できていないということにはならない。

自分をどう見せ、どう見られたくないか。

先ず自分の内面からベクトルが向かっているかが重要な気がする。

世の中には見た目を着飾っているが、中身のない人もいる。

一方、見た目は普通なのに、すごいことを成しえた人もいる。

このことから、中身の凄さが必ずしも服装(外見)に現れてくることでもないということがわかる。

では、それはどこで現れてくるのか。

これは、オーラや気迫、存在感、生き様などではないだろうか。

その人物が、日々、どんなことを考え、行動し、受け入れているか。

それによって中にあるエネルギーが循環し、自己を形成していく。

だが、ヒトが文明を持ち出し、社会を創り出すうえで、いつまでも裸のままでは秩序が保てない。

人々は自然と衣服を纏うようになった。

そして一部の人は、その中でも、本質を見失わなかった。

衣服はあくまでも自分を表現する媒体だと。

主役は自分であり、中身、言い換えれば魂である。

中身は一つの点に過ぎないが、外見は面である。

世の中の多くの人は、現代ではこの面が主流である。

ずっとこの面が見えているので、これが素顔であるという風に勘違いしてくるのである。

その裏には、本当の顔があるということも忘れてゆくほど、人々は表面化してしまった。

安易に取り換えられる衣服も、取り入れ方次第で自分をどう表現しているかの基準になる。

無意識にその服装を選んでいるつもりだが、必ずそこには何かの意図、意思決定の流れが働いている。

…まだまだ深掘り出来そうだが、ここで無理やり最初の問いに戻すことに…

 

柄+柄

年齢が増すに連れ、服装が落ち着いてくるという問い。

若い頃は自分のエネルギーがメラメラと燃えている状態に、派手な色や柄という油を注ぎ、さらにその外見的表現を大きくする。

一方、年齢を重ねることで、この自分の中で燃えるエネルギーは徐々に小さくなる。

見た目には炎が舞い上がっていないので、火力が無いように見えるが、炭のようにそのエネルギーを内包しているのである。

若い火はどんどん大きくなり、自分でも扱いづらいし、火傷を負わせてしまう可能性もある。

時を重ねるごとにだんだんとその火が落ち着いてくれば、じんわりと温かく、人を引きつけるようになる。

服装というのは、その自分の中にあるエネルギーを表面化させるツール。

それを理解すれば、今どんな衣服を身に纏えばいいかが見えてくる。

なので、僕は少し前から、徐々にガラのあるモノから無地なモノを選ぶようにしている。

それは、自分の中で、「人柄」を表現したいと感じたから。

柄と柄を合わせすぎると、結果「ガラガラ」になり、自分の周りに人がいなくなるかも…

たかが衣服、されど服装。

服装への意識、それは自己を認識する日々の指針。

全てが自分へと繋がってゆく。

あなたは、今日、何を纏いますか?

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

今日も貴方は素敵です☆