日本には、大きく分けて2つの信仰が存在する。
それは、「神道」と「仏教」。
古来から日本にあるのは、自然そのものに神が宿るとした神道。
そこに、大陸から伝わった悟りや解脱という概念を持った仏教。
この全く異なった信仰が、何故融合出来たのか。
そしてふと、こんなフレーズが浮かび上がった…
カミハムスビ、ホトケハホドク…
神は、結ぶ
今の時代、ヒトが神を感じれる場所は神社。
だがこの地に住む太古の人々は、自然、地球、そして宇宙にまで神がいるとしていた。
日本人の歴史を知るには、日本神話まで遡る必要がある。
古事記で出てくる最初の神は、天照大御神でもなく伊耶那岐、伊耶那美でもない。
初めに天上世界に現れたのは、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神である。
そして二番目と三番目の神の名に含まれているのが、「産巣日」。
この「産巣日」はムスヒであり、今で言う「結び」になったのではないだろうか。
僕たち日本人は、昔から「ご縁がある」や「縁結び」という言葉を使ってきた。
全ての事象や物事には繋がりがある。
目に見える糸もあれば、魂で繋がる見えない糸もある。
日本人は、このムスビという感覚を大切にし、この国で生きてきた。
神と生きるということは、様々な自然や他の人々と意識を共有し、生活すること。
一つでも多くの結びを持つことで、様々な豊かさを感じれるということを生みだしていた。
陽を浴び、水を飲み、風に揺れ、地に眠る。
日本人が最も大切にしてきた「ムスビ」という概念は、時代とともに徐々に失われつつある。
本当は教育の中で教えてもらうべき事なのに、それがなされていない。
僕自身、昔から歴史が好きだったわけではない。
寧ろ嫌いなジャンルだった。
だが人生について様々な部分からアプローチしていたら、日本の歴史・神話に辿り着いた。
日本は何故、今のような国になってしまったのか。
自分は日本人として国家や郷土、伝統や文化、信仰や神話など、何一つと言っていいくらい何も知らなかった。
そして知ってしまったら、もう知らなかった自分には戻れない。
今、世界で何が起こっているのか。
いや、何を起こそうとしているのかが徐々に見えてくる。
その中で日本の置かれている状況を考えてみれば、だんだん納得がいく。
僕たち世代の日本人は、残念ながら自国に興味を持ちにくくするように育てられたのかもしれない。
政治、情報、歴史、仕事、戦争…
全てが複雑に絡み合い、自分のどれがどの部分と繋がっているのかが分からない。
だだ幾つかの結び目に引き寄せられるまま、日々を送る。
本来の産巣日とはかけ離れた意図的な結びによって、僕たちは徐々に締め上げられている気がする。
それは昔の日本人も、そう感じた時はあっただろう。
結びが極端に増えていけば、収集が付かなくなる。
そして行き着く先は、縁を切ることに。
切れたものはもう元には戻らない。
結びを切らずに済む方法とは…
仏は、解く
仏教とは、輪廻と解脱によって苦しみからの脱却を説く。
ヒトは生きる上で様々な苦があり、何者もそれを避けて生きることは出来ない。
自分が望む場所や親を選べない、月日と共に心も体も老いてゆく、怪我や病による不自由さ、いつかはやってくる死への恐怖。
この四苦の「生老病死」はヒトとして生まれた以上、必ず付いて回る。
そこに愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦が加えられ、八苦となる。
いつの時代にも、悩みというものは存在する。
愛する人との別れや逢いたくない人とも出会ってしまうこと、望むものが手に入らないことや心や体が思い通りにならない。
ヒトはいつだってこの苦しみを抱えながら生きてゆく。
だからこそ善行を積むことで、来世は今より良い世界に導いてくれる。
自分が苦しいからといって相手をそこに引きずりおろし、とどめようとするのは悪行。
ヒトは自分と同じように何かに苦しんでいるのだから、共に支え合って豊かに生きようとするのは善行。
本当の苦しみというのは、あからさまに分かるものではない。
自分にとっては大したことではなくても、その本人(相手)にとってはとても重要な問題になっていることも。
僕はどちらかと言えば、悩みの多い人間だろう。
中々楽観的に物事を捉えることが出来ず、未だ起こりえない未来に対しての恐怖や苦しみを生みだしてしまう。
まだまだ解脱への道は遠いが、それを達成するための善行とは何か。
今出来ることはこうやって文字を紡ぎ、これを読んだ人が少しでもそれぞれの苦からほんの少しでも軽くなればありがたいと思う。
数々の苦しみからの解放感を得れる未来を想像する。
過去の苦を引き絞り、未来の楽へ解き放つ。
これがまだ見ぬ来世への魂渡し…
結んで、解いて
日本人は、神と結ばれることにより、その精神性から豊かな暮らしを育んできた。
そしてたくさんの結びにより、それは豊かさと比例していくかに思われた。
だが、そうではなかった。
幾重にも重なり合った結びは、良縁と悪縁を生み出すことに。
絡まり合った糸は解く必要がある。
そこに、仏という苦しみからの解放がフィットする。
結びは足し算、解脱は引き算。
足し過ぎず、引き過ぎず、今の自分に見合った容量を得る。
だからこそ、神道があった日本に仏教が受け入れられたのではないだろうか。
民族としての文化や伝統、そして信仰というのは自分たちの誇りであり尊厳である。
世界で起こる争いのほとんどは、信仰や宗教によるものといってもいいだろう。
国同士が争った結果、敗戦国は戦勝国に全てを支配され、自分たちの文化や信仰も塗り替えられてしまう。
日本に仏教が伝来した時も、考え方の違いから大きな争いに発展したが、結果日本人はそれを和合したのである。
守るべきものは残し、新たな価値はそれを互いに生かすよう融和させる。
これが、日本、大和の調和力であり、特異な民族性ではないだろうか。
現代にまで生き続けているこの民族の未来は、一体どうなるのだろう。
圧倒的な物質的世界秩序の支配に飲み込まれ、歴史から消え去るのか。
それとも特異な精神力と信仰心により世界中を調和し、新たなる人類史を生み出すのか。
全ては僕たち日本人の選択にかかっているだろう。
だからこそ、自分中にある神と仏の絶妙な均衡を知る必要がある。
魂がより崇高な学びを得るために、どのエネルギーを補充し、何を排出するかを感じ取る。
肉体と魂の正常な循環を生みだす究極奥義…
ム~ス~ン~デ~ ホ~ド~イ~テ~
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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