人類の終着点は一体どこにあるのだろうか…
僕たちヒトは、様々なものを発明し、生活を豊かにし、繁栄してきた。
現代において、その最たるものが、機械化・電子化だろう。
それと融合した人類が築く世界は、果たして楽園と呼べるのだろうか…
カミとサル
ヒトという種族は、この地球上において、現時点では最も高度な知能を持った生命体だと言えるだろう。
人類がこのまま進化すれば、新たな種が誕生する可能性もある。
そうなったとすれば、新タイプのヒトは、旧タイプのヒトをどのように捉えるだろうか。
共存か、殲滅か。
現代人が生みだした新たな生命体は、現代人の理想の上に存在するのであれば、共存の道になる。
一方、突如としてヒトよりも高度な知能を持った生命体が現れたとしたら、殲滅の道もあり得る。
この殲滅のシナリオは、どちら側にも起こりえる。
旧タイプ(現代人)が新たな生命体を排除する方向と、高度な知的生命体が旧タイプを排除するという2つのパターンが考えられる。
ほとんどの生命体には、防衛本能が備わっており、未知なるものには警戒心が働く。
相手が自分にとって無害か有害かを判断するセンサーで、こちらの行動が変わってくる。
その存在は、人類を更なる発展へと導く存在かもしれないし、破滅をもたらすかもしれない。
生命体というものは、何か途轍もない衝撃を受けた時にその真価を発揮する。
生命の危機が目の前に訪れることで、初めて”生きたい”という本能が騒めき立つ。
ヒトは、本当に進化しているのか。
ヒトは、本当に進化を望んでいるのか。
進化論というサルからヒトへと進化したとするならば、もっとサルを崇めてもよいはずである。
何といっても人類の祖なのだから。
しかし、ヒトが崇めるのは「カミ」である。
ヒトがカミを崇めるのは、それがヒトを生みだしたから。
そうなれば、カミ=サルとなる。
だが、ヒトはサルをカミとは見なしていない。
そう考えると、ヒトとは一体何ものが創り出した生命なのだろうか。
仮にヒトを創り出した知的な生命体がいたとする。
彼らが新たな生命を創り出そうとしたときに生まれた種は、果たして彼等より高度な知性を持つだろうか。
知的生命体「A」が、ある目的の為、自分とサルの遺伝子を掛け合わせ、ヒト「α」を生みだしたとする。
初めはサルの遺伝子が多かったが、交配を繰り返すうち、徐々に「A」に近づいてきた。
この延長線上の先に「A」が待っていたとしても、絶対に「α」は「A」にはなれないだろう。
愚かな両親のもとに生れた子供が奇跡的に優秀だったとしても、親子関係が逆転したり、子がその親の親になることはあり得ないのである。
ヒト「α」は知的生命体「A」よって生みだされた。
A>α
これは覆すことが出来ない宇宙の原理。
「A」からみれば、自分たちが生みだした「α」は未だ誰が自分たちを創り出したのかを分かっていないと感じているだろう。
ヒントはそこら中に存在するのに、彼等はそれを繋ぎ合わせるだけの知能にまで至っていないと…
便利と進化
僕たちが認識している進化とは、本当に進化と呼べるだろうか。
現代的に解釈すれば、「進化」=「便利」ではないだろうか。
ヒトは、時代と共に様々な物を作り出してきた。
それは社会や生活をより良いモノにしようとし、発明・生産されてきた。
便利なものを作り出すことで、より良い生活を送れる。
そう信じて人々は生きてきた。
だが、それを人類の進化として捉えても良いのだろうか。
言葉、文字、手紙、電話、ポケットベル、携帯電話、スマートフォン…
コミュニケーションの過程を考えてみるとこんな流れになる。
便利なツールが徐々に生みだされ、生活を便利にしてきた。
だが、僕たち人類は、本当にこんな「便利な世界」を望んでいただろうか。
何もかもが便利という世界は、ヒトを幸福へと導くだろうか。
今から20年前に誰もがスマートフォンを持つとは考えなかったように、今から20年後は、人々はどんな便利なツールを携えているのだろうか。
本当に、僕たちはそれを望んでいるだろうか。
それを持たなければ、社会では生きてゆけない状態が待つだろう。
好むと好まざるにせよ、皆と足並みをそろえなければ排除されてしまうという空気を巧みに作り出すだろう。
誰もが便利な世界を望むのは理解できる。
しかし、それは果たして「進化」呼んでよいものだろうか。
ヒトが生きるのに必要な動きや思考を全て機械に委ねてしまうのが、究極の便利だとする。
この便利の追及が、人類をどんな世界に誘うのだろう。
何も話さず、何も動かず、何も感じず、何も考えない。
全てが無に帰してゆく。
これは「進化」ではなく「退化」と感じるのは僕だけだろうか。
ヒトは、何のためにこの地球上に存在しているのだろうか。
生物界において最も高度な生き物として君臨しているが、それは全ての生物たちに望まれての事だろうか。
人類は、他の生物とは明らかに違った世界を生きているように感じる。
時と共に破壊と再生を繰り返し、今の世界を生きている。
そう考えれば、人類はこれからも便利な世界を目指してゆくだろう。
それは「進化」でもなく「退化」でもない。
そうなるように”設定”されているのかもしれない。
僕たちはあまりにも”この世界”に囚われ過ぎている気がする。
この肉体は器であり、本体は魂である。
本質は魂の成長であり、経験と解釈である。
起こること全てが運命であり、現世におけるミッションなのだと。
魂の導きに従ってこの世界を感じてみる。
勿論全ては受け入れられず、不便で息苦しいが、何かが通じ合った時、その神秘に包まれる喜びが満ちる。
今こうやって文字を打ち込むのも、僕の小さなミッションの一つかもしれない。
誰かがこの文章を読むのも便利なツールのおかげ。
便利とは、進化と退化を内包する。
何とも”便利”な言葉である…
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今日も貴方は素敵です☆