前回の『”素敵”はステキな組み合わせ』に書こうとして、辿り着けなったもう一つの問い。
ステキという響きから、当てられた漢字は「素敵」である。
だが、もう一つの言葉があった。
それは、「捨て気」という意味。
気を捨てることが素敵な自分へと繋がってゆく。
それはどんな流れだろうか。
少しづつ解してみようと思う…
気の存在
先ずは、「気」という存在から考えてみる。
これは、人間に流れる生命エネルギーとも言えるだろう。
誰もに備わる、普遍的な存在。
だが、これ自体は可視化することは出来ない。
現在のこの世は物質世界なので、精神世界の概念を理解しにくい構造になっている。
目に見えるものが全て真実だということが常識なら、目に見えない物事は非常識になる。
日々、僕たちは、一体何を見ているのだろうか。
物質化したものは、それが生み出される前に、必ず可視化出来ない状態があるのではないだろうか。
思考や哲学、感情やイメージや空想などなど。
そこに自分の世界にある物質を通して、それを目に見える形にしている。
そう考えると、全ての目に見える存在は、目に見えない存在から生み出されているとも考えられないだろうか。
ヒトは、心の状態や、感情を持つから人なのである。
何かいいことがあれば、自然と気持ちが明るくなり、鼻歌でも歌いたくなるだろう。
そんな人の近くにいれば、周りも自然とその影響を受け、楽しさの連鎖が起こる。
これは誰もが体感し、理解できる流れだろう。
そうすると、自分というのは先ず感情や思考という空間的な存在であり、それを現実で生きやすくするために言葉や文字、商品などを生みだす、という流れだと分かってくる。
全ては自らが発するエネルギーによって世界は創られる。
楽しく生きるも、悲しく生きるも本人次第。
この自分を創り出す力の根源を「気」と呼ぶのかもしれない。
気の断捨離
「気」というものは、自分を流れる根源的なエネルギー。
それを「捨てる」という…
気を捨てれば自分の流れが止まってしまう。
こんな事が果たして出来るのだろうか。
そんなことを考えてるときに、ふと「断捨離」という言葉が浮かんだ。
断って、捨てて、離す。
これは一般的には部屋の掃除や片付けをすることで、自然と心もすっきりとしてくる効果があると言われている。
だが、本来は先ず”心に流れる道を断ち、わだかまりを捨てて、間合いを取る”ということのような気がする。
ヒトは、「所有」という欲望に支配されがちである。
一度手に入れたものは、たとえ使ってなくても、時が経っても中々手放せないものです。
モノが幸福感を味合わせてくれるから、ヒトはモノを持ち続ける。
そしてその場がモノで溢れれば、自分の居場所がどんどん狭くなり、幸福感が徐々に下がってゆく。
だからこそ、普段から掃除や整理整頓をするのはそのためだろう。
物質的に整頓されれば、心も整ってくる。
心が整えばモノが精査され、快適に過ごせる。
出来るだけシンプルに、心豊かに日々を送る。
今、世界はモノで溢れているが、情報も溢れかえっている。
事実は一つだが、人それぞれの解釈が無数に飛び交っている。
これを全て受け取っていれば、直ぐに自分の思考部屋はパンパンに詰まってしまうだろう。
何もしなくても、本当に必要な情報は、信頼できる人から伝わって来るもの。
どれが自分にとって必要かそうでないかをいつも心がけていれば、自然と目利きが備わってくる。
今の僕の思考部屋もかなりの情報で溢れかえっているのできちんと整理していかないと…と気付いた。
そこでこうやって文章に落とすことで、日々少しづつだが心の整理を行っている。
人は生きているだけで、情報という波がいつも押し寄せてくる。
ある程度の精査は出来るが、やはり意識的な大掃除もたまには必要かもしれない。
話がかなり膨らんでしまったが、「捨てる」というのは、日々のとても大切なことだと改めて感じる。
この「捨てる気」は自分の中の、澱んだエネルギーを指すのだろう。
流れのない水は、だんだんとその清さを失ってゆく。
重要なのは、自分に入ってくる外気をどのようにして上手く受け流せるかということ。
暗いヒトには暗いエネルギーが流れ込む。
明るいヒトには明るいエネルギーが流れ込む。
そう考えれば、絶対に明るい方がいい。
どんなエネルギーが自分に向かって来ようとも、和のエネルギーで受け流す。
いつでも「笑顔」という最大の武器を携えて…
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今日も貴方は”捨て気”です☆