本の本質

僕は、何かを知りたければ、そのジャンルに関する本を数冊読む。

一つのテーマでも、書く人によって解釈と表現が全く違っていることもある。

現代では、知りたいことがあれば、インターネットで検索すれば一瞬で答えに辿り着く。

もちろんそれも利用するが、より自分の中にそれを入れ込みたいと思えば、本に行き着く。

「知りたい…」

この抗いがたい本能を抑える特効薬が、本なのである…

 

本≠文字

人類は、音を発し、声を出し、言葉を話した。

そして、その言葉を物質化したものが文字である。僕たちは、その文字がどういう音を発し、どんな意味が含まれているかを習う。それを元に、自分の音や文字を組み立てて会話をしてゆく。

時代と共に言葉や文字の意味合いや読み方も変わってくる。

日本には、「漢字・ひらがな・カタカナ」の3種類の文字がある。

一般的には中国から漢字が伝わり、それを書きやすく崩したのがひらがなで、外国の言葉を表すのがカタカナだとされている。

しかし、いろんな視点からこの「日本語」というものを探究していくと、別の解釈がある事を知る。

この国には、三世紀ごろに漢字が伝わるまで本当に文字はなかったのか。

そこでもっとも古い文字として辿り着くのが、縄文時代からあるとされる「カタカムナ」である。

カタカナとカタカムナ。

現代のカタカナは「ム」が消えたもの。

では何故「ム」が無くなったのか。時代と共に自然に消え去ってしまったのか。それとも意図的に消されたのか。

全ての始まりは「無」であり、そこから「有」が生まれる。

無は全ての根源であり、無限のエネルギーを秘めている。

この「ム」という音の響きが取り除かれたものが「カタカナ」となっている。

こういった情報も、きっかけはネットを通して知ったことの一つになる。

だが、もっと本質的に知りたいと感じれば、やはり本を読むしかないのである。

僕たちの世代(40代)の教育というものは、教科書という文字や絵を紙に写した「本」という物質で物事を教えられ、理解してきた。

そして現代では画面の中に膨大なデータがあり、そこから必要な教材を表示する。

正直、本は重たい。

内容量は、重さに比例する。

文字数が増えれば増えるほどその厚みは膨らみ、重量も増す。

しかしそれが、薄い本だから良くなくて、分厚いから良い本だとも一概には言えない。

詩や俳句、短歌などは、少ない文字や言葉でそれを表現する。

大切なのは、その文字や言葉を使ってその作者が何を表そうとしているかを感じることだろう…

 

本=思考

本を読むということは、文字を読むことではない。

文字の向こう側にある感情を、自らに映し出すことではないだろうか。

20代に読んだ物語でも、数十年時を経て読み返すと、また新たな感情が生みだされてくることもある。

その一冊の本は、中身は一切変わらずその本棚にあり続けている。

同じ内容の本ならいつ読んでもそれは変わらない。

だがそれは時に全く自分にとって新たな気づきや納得をもたらしてくれる。

変わらない物と変わる者。

人はいつも最善の選択をする。

しかし何故か時が経てば、それが徐々にそのポジションから遠ざかってゆく。

それは果てしなく離れてゆき、やがて消え去る。

そして、また時を経て、不意にそれは姿を現すのである。

遠く宇宙の彼方に消え去ったと思っていたものが、再びあの時と同じ姿で出現する。

ここから、物事は直線的に流れているのではなく、円を描くように流れている事が分かる。

太陽が昇っては沈む。夜が来てまた太陽が昇るかの如く。

一度手にした本は離れたりしない。

それはずっと健気にその場所でまた開かれるのを待っている。

離れるのは自分の方なのである。

成長という探究心に導かれ、世界を旅する。

思考も地球のように丸くあり、やがて出発地点へ辿り着く。

物理的にその景色は変わらないが、感じ方が明らかに変わっていることに気づく。

0度と360度。

上から見れば同じ場所だが、横から見れば次元が一つ上昇している。

僕たちの目の前には世界という川があり、いつも何かが永遠に流れている。

何を拾い上げ、吟味し、持ち帰るのか。

それをいつも眺めながら考える。

自分にとっては新しい物語でも、それは太古からずっとそこに流れ続けている。

それを掴むきっかけが、ただ今までなかっただけだと気付く。

最近では、改めて平家物語を読んでみた。

改めてと言えるほどのものではなく、ほぼ初見になるが、これが何故か心に染み込む。

自分の中で足りなかったパズルのピースが埋まるかの如く、はまり込む。

この世界という大河に流されるのではなく、流れているものを掴み取る。

そうやって小さな欠片を組み合わせ、魂の我が家を創り上げてゆく。

世界はいつも親切で、ずっとそこに在り続ける。

そうやって自分の世界を創り上げた人の叡智が詰まったものが「本」ではないだろうか。

本は、年・場所・人間関係など、一切関係なく、その人の思考に瞬時に辿り着ける。

出逢った人が、実際どんな考え方で人生を送っているのかを知るには、ある程度の信頼関係が必要になる。それを得るためにはもちろん時間もかかるだろう。

そう考えれば、本というのは、「思考のカミングアウト」とも受け取れる。

”ワタシは人生を○○と捉えている”

と、世界に向けて発表していることになる。

それが誰のもとに届くかは、こちらで選択することはできない。

書くということは、世界中の人たちに読んでもらっても結構ですということ。

自分はこんな人間です、と紹介していることになる。

在る世界と自分が創る世界。

それを繋ぐのが、文字や言葉。

目に見えない事象を具現化し、物質的に形成されたもの、それが僕の「本」の解釈である。

 

 

 

澄んだ空気

紙を感じる手

ページをめくる音

淹れ立てのコーヒー

文字の向こうを…

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

今日も貴方は素敵です☆