第48周期『カルク、ユルク、ダサク』

2026年、明けましておめでとうございます。

2025年12月1日をもって、地球歴48週目を迎えた。

年々、自分の中で”何か”が変わる、もしくは”開く”ような感覚がある。

昔から、この世界には漠然と違和感があった。

何故ヒトは食べるのか…

何故ヒトは働くのか…

何故ヒトは学ぶのか…

何故ヒトは愛するのか…

なぜ、ナゼ、何故…

そう言った問いをいつも投げかけていた。

そして徐々にその答えが、ここの年齢で微かに見え始めてきた。

自分は何か興味が出ると、必ず探究心が芽生える。

その世界に入り込み、物事を深く考えてしまう。

人によく思われたいと、脳と身体を鍛えてきた。

結果、知識は重みを増し、感情と筋肉は引き締まり、見た目の格好良さは手に入った。

だが、また自分の中で何かが揺らぎ始める…

 

「カルク」

一つの物事にフォーカスが当たると、それを深掘りし始める。

知りたいという欲求を満たすため、行動を起こす。

そこで得た経験が、自分の中で積み上がってゆく。

それはドンドンと重ねられ、重みを増してゆく。

そうなると、ヒトはそこから身動きが取りづらくなる。

自分が積み上げた知識という王国に居座り続ける。

人は潜在的に様々な欲求を内在している。

金持ちになりたい、人から尊敬されたい、異性にモテたい、他人を支配したい…

こういった”思い”が膨れ上がり、やがて”重い”へと変容してしまう。

自分が良い思いをするために、誰かを蹴落とす。

この世界は、このシステムが基本構造にある。

自分にとっては、これこそが「違和感」の元凶であることに気づく。

欲しいモノを手に入れようと仕事をし、お金を稼ぎ、知識や服装に投資する。

20代、30代はそれでも良かった。

だが、40代後半にもなってくると、外側(社会)に向けていた自分のエネルギーが段々と弱まってくる。

体力という問題も勿論あるだろうが、本質はそこではない。

若い頃は、如何に自分を世界に認められてもらうか、というのが人生のテーマだったように思う。

そして在る真実が見えた今は、ベクトルが逆に向き始める。

自分が世界に合わせて生きるのではなく、自分が創造する世界を生きるということ。

この世界は、目には見えない支配と隷属のシステムで成り立っている。

支配者は上で、隷属者は下にある。

自分たちがこの世界が生きづらいと感じていたのは、この歯車に強制的に組み込まれているからである。

今より楽に生きたければ、もっと上を目指し、人を使えるポジションに行くこと。

人は、常に誰かより優位に立とうと必死でもがき苦しむ。

一部の支配者たちが作ったエゴシステムの為に、どれだけ自分の人生を捧げればよいのだろうか。

この世界で何かを成そうと思えば、この重みから解放されなければならない。

ではどうやってその牢獄から抜け出せるのか。

自分は一生この場所から逃れることはできない、そう思い込んでいる。

いや、思い込まされていた。

誰も扉を開けようともしない。

きっと鍵がかかっていると決めつけているのだ。

もし、扉に手をふれ、鍵が開いていたとしたらどうだろうか。

喜びで飛び出す人もいれば、熟考してから慎重に行動する人もいるだろう。

そして、そのカラクリが分かったと同時に、見えない足枷は消えてゆく。

全ては幻想であり、自分は、自分の人生を生きる権利がある事を悟る。

その瞬間、何かが解き放たれる。

俺の心は、軽くなった…

 

「ユルク」

時代と共に、人の考えや服装も変わってゆく。

仕事というものは、しんどくて、厳しいモノである。

それに耐えて経験を積み、一人前になる。

こういった仕事論は、現状において破綻している。

自分たち世代が体感してきたことを次の世代に伝えることが、仕事の一つだと。

だが、この価値観だと全く通用しなくなっている。

人生=仕事という価値観は、完全に崩壊している。

仕事に情熱を注いでこそ、人生は輝く。

今、そんなことを言う大人は居なくなった。

時代は、完全に変わったのだ。

自分たちが若い頃、大人たちは、きっとこう言っていただろう。

「こんな考えの若い奴らに、この次の社会を任せて大丈夫なのだろうか…」

そして数十年が過ぎ、大人になった自分たちも同じセリフを呟く。

ヒトは、いつだって自分が一番だと思いたい生き物である。

中年期になり、これからの人生をどう生きるかを決めるとき、今までの人生を参考にするだろう。

過去と現在を一本の線にし、その延長線上に未来があるとする。

そうなった時に見えるのは、何の代わり映えのない世界があるだけである。

一つの道を極めるのが美徳であった時代から、やりたいことは何でも挑戦してみるという価値観に転換されていった。

こう生きなければならないという”締め付け”から、少し自由さを取り入れてみる。

これは服装においても言えること。

身体を締め付ける服は、カッコ良く、魅力的に見える。

だが、時代や年齢と共に、少しゆったりとした服に切り替えてゆく。

あまり物事を理論的に深く考えず、「まぁ、そんなこともあるよね」という感覚でいることも大切であることに気づく。

ボルトとナットの関係のように、きつく締めればいいというものでもない。

吊り橋も緩むように架けられている。

”ゆとり、余裕、遊び”が必要なのである。

社会の型にはまることが、人生の本質では無い。

俺の意識は、緩くなった…

 

「ダサク」

男なら、いつもカッコよく在りたい。

だが、今はそうは思わなくなった。

寧ろ、ダサく在りたいと。

18くらいからと考えれば、約30年間”格好良さ”という山を登ってきた。

ヒトは身に着けるもので自分の価値を引き上げることが出来る。

良いモノは高い。

高いモノを身に着ければ自分にそのエネルギーが加算され、肉体や精神にその効果が発揮される。

勿論、安い物でも上手く着こなせば自分を魅力的に見せることも可能である。

この世界は二極性で成り立つ。

陰と陽、光と闇、男と女…

どちらか片方だけではバランスが悪い。

今まで自分の人生で目指してきたことは、社会に適合するためにしてきたこと。

人生がこの世の全てではない。

自分には魂があり、この地球でしか積めない経験を得に来ている。

今までの人生は、主に”人的視点”で過ごしてきたが、これからの人生は、”霊的視点”でこの世を捉えてみる。

魂の成長には、相反するエネルギーの統合が必要だと感じる。

山は登り続けることも出来るが、どこかのタイミングで下山を始める。

登ることも大変だが、下るのもまた一種の難しさがある。

カッコよさは一歩一歩積み上がってゆくが、ダサくなってゆくのは一歩踏み外せば大怪我をする恐れがある。

常にバランスを考え、徐々にサイズを緩め、固定概念を軽くしてゆく。

今の服は、基本的には”洋服”である。

日本人には和服があったが、今の時代なかなか和服を普段着で見ることは無くなった。

古来からある日本人の服装を自分でも徐々に取り入れながら、自分のスタイルを創り上げてゆく。

”ダサく”という言葉は”駄作”に繋がる。

自分は、2021年頃から革を用いた、主にヒト型の作品を創作している。

それを用いて何かを生み出すとき、最近は”降ろす”という表現を使う。

ぼんやりとしたイメージを徐々に鮮明にし、ある程度の領域まで行くと、脳から手を通じてそれが物質化される。

その過程では必ず自分というフィルターを通るので、独自の表現になり、それが創作される。

そこで生み出されたモノが、良作か駄作かなどは考えない。

もし誰かが駄作だと言ったとしても、それを受けとめられる柔軟性を持つ。

何者も恐れない。

全ては魂の経験値。

カルク、ユルク、ダサク…

カルク、ユルク、ダサク…

カルク、ユルク、ダサク…

俺の魂は、微笑んだ…

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

”今日も貴方は素敵です☆”