川に皮れば革るとき

僕は、魂の導きにより、姫路の地に居る。

姫路といえば姫路城が最も有名だが、それは表向きの象徴でしかないと改めて感じる。

この地における本質を知れば、日本の文化、伝統が見えてくる。

それは、「なめし」という世界…

 

鞣しの起源

僕は、今、パートナーと共に「姫路レザー”La storia”」として、姫路の革を用いて様々なアイテムを制作し、一人でも多くの方に革の魅力や新たな可能性を知ってもらうべく活動をしている。

この世界には革製品が存在していることは、ほとんどの人が知っている。

そしてその革は、何かしらの生き物の皮から加工されていることも分かっているだろう。

しかし、その生き物の皮がどのようにして革へと変化してゆくのかは、あまり知られていない。

それに皮を鞣すということで生まれる様々な禍福。

日本という国の成り立ちから紐解くことで、この「鞣し」という世界が見えてくる。

現在の鞣しは、大きく分けて「クロム(金属性)」と「タンニン(植物性)」が主流である。

ヒトは、太古から狩猟民族であり、生き物の肉を食べた後、残った皮をどのように利用してきたのだろうか。

肉や皮は、時間が経てば腐食が始まる。

肉は食料になるが、皮は毛があるので食料にはならない。

そこでそれを纏うことで、様々な危険から身を守ったり、防寒着としての役目をしてきたのだろう。

しかし、さばいた皮は、生ものなので直接は身に纏えない。

そこでこの皮をどうにかして利用しようと、古代の人々は色々な方法をきっと試してみただろう。

一説に因れば、倒木の下敷きになった動物の皮が何故か腐っていなかったとか…

”タイムマシンに乗り、世界で初めて鞣された革を見てみたい”

そんな妄想が頭をよぎるのだった…

 

熟皮術と皇后

日本に伝わった鞣しに必要なモノは、「水」「塩」「油」である。

皮革の歴史を調べれば、どこからどのようにして、この加工が行われてきたのかが分かってきた。

  1. 朝鮮(新羅)伝来説
  2. 聖翁説
  3. 渡来出雲説

文献や資料などからは、様々な解釈ができる。

どれが真実なのかはわからないが、日本の神話から続く天皇の流れや時代背景が見えていなければ本質にはたどり着けないだろう。

先ずこの説から分かるのは、「鞣し」は元々日本にはなく、大陸から伝わったものだということ。

これは家畜の文化があった大陸では皮が出るが、日本の農耕で用いる牛などは大陸ほど数が多くなかったため、鞣しの技術がそこまで発展しなかったといわれている。

そしてその技術を持っていたのが新羅人である。

これは神功皇后が三韓征伐(3世紀頃)を行った時に、連れ帰った新羅人が熟皮術に長けていたという。

そこで但馬の円山川で試したところ、上手くは鞣せなかった。

川を徐々に南下し、姫路の市川で遂にそれが成功した。

そしてその近くにあった場所が高木村である。

 

謎の爺さん

昔、この場所は、松ヶ瀬村と呼ばれていた。

では何故「高木」になったのか。

それはこの場所に物知りの爺さんが住んでいたことに由来する。

物知りの爺さんがいるという噂で、いろんな人が訪ねてきた。

近くの人は”あの高い木の下に住んでいる”と案内していた。

そこからこの場所は「高木」と呼ばれるようになった。

そしてこの爺さんは熟皮術を高木村の人たちに伝授したといわれている。

そんな爺さんを称え、聖翁(ヒジリオキナ)と皆は呼んだ。

この翁の正体とは…

現在、高木にある高の木神社には、市川が氾濫した時に菅原道真公の木像が流れ着いたことから、天神・聖神・須佐之男神の三神が祀られている。

 

牛と神

出雲の古志村にいた熟皮術を持つ渡来人が、ひの川で鞣してみたが上手くいかず、東に移動しながら円山川、市川へとたどり着く。

この出雲の簸川はスサノオがヤマタノオロチを退治した伝説の場所である。

そして神仏習合において、スサノオは「牛頭ごず天王」に当たる。

伝来した熟皮術は菜種油を使っていたが、それ以外のものもあった。

皮に油を入れなければ、柔らかくはならない。

この油の役目をするのが、牛の脳だった。

これは「牛頭」、そのものである。

牛は神の使いとも考えられていたことから、鞣された革も大切に扱われていたことが伺える。

生命を余すところなく用いるところは、日本人ならではの発想かもしれない。

他国から伝わった技術を自分たちなりに昇華する。

それが世界に誇る日本人のポテンシャルなのだろう。

全てに神が宿るという世界を本当に実感していたのは、いつの時代だろうか。

鞣した革を通して神を感じる。

それが、確信出来る日まで…

 

モノの本流

これは、姫路の皮革という世界の始まりにしか過ぎない。

日本の神話、自然が生み出す川と土地、生命、異文化、伝統、戦争、差別…

自分が革と一つになるためには、もっと学びが必要だと思い知らされる。

ここで生み出された「白鞣し革」という奇跡

鞣すということは、そこに生きた命を紡ぐことであり、自然との対話を通して神と一体になることなのかもしれない。

今を生きる僕たちは、そのモノがどんな過程を経て、それが成り立っているかをあまり気にしなくなってきている。

それがあって当たり前という感覚が、蔓延してきている。

革は生き物の皮から出来ていて、それは特定の川の水質や流れによって成り立っている。

近代化や合理化が進む時代の流れが本流になるのか支流になるのか。

ヒトが起こす流れと自然が起こす流れ。

もう、どちらのエネルギーが本流なのかは、言うまでもないでしょう…

 

”川に揺れ 神と皮った 革はシロ”

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

今日も貴方は素敵です☆